後ろ向き太郎の後ろ向き日記

DIY、エアガン、武器、コインが好きです。

「放置子」に対するニュースにモヤっと

最近、SNSで議論されている、「放置子」に対するニュースを見かけました。

「親に放っておかれ、どこで何をしているかも把握されていない “放置子”が他人の家に入り浸る」
(集英社オンラインより)
https://shueisha.online/articles/-/254344

タイトルからして、読む人の心に引っかかるようにできています。「放置子」「親に放っておかれ」「他人の家に入り浸る」。

ひとつひとつの語句が、子ども本人の行動というよりも、“誰かの迷惑になっている存在”としてイメージを作っていく。

でも、読み進めるうちに、あれ?と思うことがいくつも出てくるんですよね。

取材されているのは「神奈川県内に住むHさん」という匿名の保護者。どうやら、近所の子どもが毎日のように家にやってきて困った、という話らしいです。

その子は「親が共働きで不在、自分で鍵を使って家に入る」とあります。つまり鍵っ子です。

でも、なぜ毎日Hさん宅に来るのかという理由ははっきりしないし、しかも「中学生の兄姉がいる」とも書かれていて、完全に独りきりでもない。子どもの置かれた状況が一貫していないように見える。そもそも、冒頭に「親に放っておかれ」とありますが、兄姉がいる状況で鍵を持っているのは放置されているわけではなく、子供の自由の範疇では?

そして、Hさん側の描写にも不自然さがあります。「習い事があるから遊べない」と伝えても来訪が続いたが、「夫が“在宅勤務で困る”と断ったことでようやく来なくなった」とあります。

いや、それ、別にHさん本人が「今日は来ないでね」って言えば済んだ話ではないの?

なんで夫が出てきたら急に話が決着するの?なんだか、夫の言葉には魔法でもかかってるかのように描かれていて不自然です。

話としてオチをつけたかったのかもしれないけど、現実的なやりとりとしてはちょっと納得しにくいんですよね。

ここで、まず第一に、「Hさん=波風立てない被害者」という前提を立てています。

その後、別の保護者の語り手があらわれ、「ママ友から聞いた話」として、新たな放置子が「シングルマザーの家庭で、お母さんがほとんど家にいない放置子らしい」と知ったと語ります。

でもここもまた、確定情報ではない。ただの“ママ友の噂”です。本人に聞いたわけでも、記者が調べたわけでもない。それでも記事の中では、「この子は放置子です」という前提で話が進んでいく。

こちらも、「語り手の保護者=レッテル貼りもしていない、傍観者」という立場を強調している。Hさんも次の保護者も、自分からはNoを言わないし、レッテル貼りもしていない。自分は正しいし被害者である、と。

で、ここで思うんですけど。
この記事は本当に「ニュース」として書かれてるんですよね?
だったら、なぜこの“放置子”と呼ばれている子ども本人の気持ちに想像が及ばないんでしょうか。

もしこの子が記事を目にしたらどうなるでしょう?
「夫が困ってるからって追い返された」と書かれた家が、自分の行った家だと気づいたとしたら?
自分の家庭環境が「放置されてる」と名指しされ、しかもその根拠が“ママ友の噂”だったと知ったら?
子どもはどう思うんでしょうか。傷つかないとでも思っているんでしょうか。報道が社会的影響を持つとわかっていて、なぜそれを考えないのかが不思議です。

SNSでの噂話なら、多少の無責任さはつきものかもしれない。

でも、報道を名乗るメディアがそのまま「誰かがそう言ってました」を根拠にして話を作っていいんでしょうか?

子どものプライバシーや尊厳が傷つく可能性を想定しないまま、情報を“共感コンテンツ”として消費していいのか?

もし、本当に放置されているのなら、2025年7月現在、この猛暑のなか、暑さをしのげる場所もないかもしれない。適切な福祉や保護につなげるべきです。

仮に、これは創作に近いエピソードだったとしましょう。それならそれで、「これは実際の取材をもとにしたフィクションです」と明示すべきです。でも、記事の構成はあくまで実話のように書かれていて、読者に“これは現実の一例です”という印象を与えようとしている。

じゃあこれは事実なの?それとも作り話なの?
どっちに転んでも問題です。もし作り話なら、読者をだまして共感を誘ったことになるし、本当に実話なら、あまりに裏取りや児童に対する配慮が足りない。

どちらにせよ、メディア倫理としては良くないラインを踏み越えているように感じてしまう。

しかも、この構成の中でいちばん得をしているのは誰かというと、Hさんでも放置子の子どもでもなく、こういう“炎上しそうなテーマ”を扱ってネタにしたい側です。

「困った子がいる」「親がダメだから」「うちは大変だった」
そういう、読者が気持ちよく“自分はちゃんとしてる”と思える物語の枠組みを借りて、誰かを暗に悪者にする。それをニュースの顔をして届けてくる。

SNSでこういう話題が出ること自体は、正直嫌だけど、よくあることだと思います。自分の家庭で困ったこと、嫌だった経験を率直に語ること、それ自体はひとつの感情表現として自然なことでしょう。

もちろん、「うちにもこんな子が来て困った」と感じた人が、自分の言葉で発信することには、それなりの意味も責任もあると思います。

けれど、メディアがそれをそのまま拾って、「こういうケースが増えているらしい」「最近は放置子が問題になっている」と、まるで社会的コンセンサスのように報じてしまうとき、そこには別の次元の重みが生まれます。

“放置されている子どもは、迷惑な存在である”
そんな思想がSNSの中で生まれてしまうのは、ある程度やむを得ない部分もあるかもしれません。でも、メディアがその思想を何の検証もなく拡散するのは、極めて危うい。

本来、もし放置状態の子どもが本当にいるなら、それはまず適切な保護や支援、福祉につなげることが最優先のはずです。

そういう構えがあるべきなのに、報道の文脈でただ「迷惑だった」と記録することに、いったいどんな社会的な価値があるんでしょうか。誰がその情報を必要としているのか。誰がその発信で救われるのか。

子どもに関わる問題を、ただ「変な子がいて困った話」として終わらせるのではなく、「じゃあどうしたらよかったのか?」を問うところまで行くのが、報道の仕事なんじゃないかと思ってしまいます。

そういう記事が流れていくのを、ただの読み物として受け流すのは、ちょっと違うと思って、こうして残しておきます。